墓地分譲 | 永代供養 | 法事 | 曹洞宗の禅寺・大蒼院

墓地分譲、永代供養、法事は曹洞宗の禅寺・大蒼院へ

宗派 曹洞宗
山号寺号 福聚山 大蒼院 ふくじゅざん だいそういん
本尊 釈迦牟尼仏(木製)
所在地 群馬県みどり市東町小中727
       (旧 勢多郡東村)
現住 28世 禅峰俊洋(市川)
開基 福聚院銀山道金居士 天文16年(1547)没
開山 明巖鑑察大和尚 元和4年(1618)没
開基の福聚院銀山道金居士は松島氏であり、黒川郷(現桐生市黒保根町と東町)の安倍氏の遺臣の子孫と言われております。
小中は戦国時代に黒川郷松島氏を頭領とする武士団の居留地であったとされ、小中城主「松島淡路守」と称した武将もいた事から、開基松島氏は城主一族であったと思われます。
第二次戦争中に供出した鐘の銘に「開基松島長右衛門」と俗名があり。松島本家の墓所には、南北朝時代の文和5年(1356)の銘の板碑が現存するそうです。
当山にも同年代の板碑が現存しますが、明治に入り廃寺となった隣接(西へ200m程)する天台宗の宝蔵院跡地、観音堂に建てられていたものではないかと推測されます。
  • 開山は新里村山上(現桐生市新里町山上)にある常廣寺の3世ですが、開創は開基福聚院銀山道金居士が天文16年(1547)没である事、また、現存する過去帳に延徳2年(1490)没の方が見られ、それ以前は没年不詳の方もいますので、現時点では延徳2年(1490)以前、室町8代将軍足利義政の戦国時代としか推測できません。
    創建時や寺の歴史は定かではありませんが、現本堂の建物は屋根裏の上棟時記録、寛政12年(1800)により、この頃の建立であると思われます。

    欄間彫刻は(正面に玉持ち龍、右に南泉斬猫、左に徳誠華亭の般子和尚)現本堂建立より29年後の文政12年(1829)の作であり、彫刻師は花輪宿(現みどり市東町花輪)の石原常八主信と欄間裏の署名より読み解けます。

当時数々の名彫刻師を輩出した花輪宿、匠の里に於いて、後世に多数の作品を残した一際目立つ存在の2代石原常八主信であります。2代常八は栃木県「野木神社」文政2年(1819)を皮切に、同年と天保6年(1835)板倉町「雷電神社本殿」の16年の間に、文政7年(1824)千葉県野田市「愛宕神社」、文政12年(1829)当山、安中市「龍昌寺」、天保4年(1833)埼玉県小川町「八宮神社本殿」、天保4年(1833)みどり市東町沢入「大澤寺」、天保6年(1835)みどり市大間々町「光栄寺」、弘化4年(1847)桐生市新里町「善昌寺」、安中市板鼻「長伝寺」、嘉永元年(1848)伊勢崎市「伊勢崎神社本殿」、寛永4年(1851)埼玉県熊谷市妻沼「聖天宮」と、解っているだけでも、多数の素晴らしい仕事を当時としては高齢であったろう70代でこなしていた事が伺われます。
文久3年(1863)享年77歳で生涯を終え、花輪祥禅寺に「自明浄然居士」と墓石に刻まれ、永眠しているそうです。

みどり市指定の重要文化財に指定されております。
  • 中央(玉持ち龍)

  • [左]徳誠華亭(とくていかてい)の般子和尚

  • [右]南泉斬猫(なんぜんざんびょう)

文化3年(1806)の『足尾通見取絵図』を見ると、大蒼院ではなく大空院と記載され、小中宿の裏の台地にある大平集落の中にあり、境内に本堂と庫裏が描かれています。江戸時代には小夜戸(現みどり市東町小夜戸)の長福寺と聚福寺が末寺であり、長福寺は松島(現みどり市東町小夜戸)の集落に本堂と庫裏が描かれ、東三十三札所の十八番札所で聖観音を祀っていたそうです。
  • 御詠歌は「むらさきの雲のむかいを松島の 波たちかへり又もまふてん」でありました。末寺の2寺は残念ながら明治元年に廃寺となり、大蒼院に合併されております。

    境内の鐘楼は先に記したように戦時中に供出、平成3年(1991)に当時27世義峰俊英大和尚の再建の趣旨に、檀信徒一同の賛同を得て、各家の願いを書いた銅板を高岡の鋳造所まで、一同持参し、鋳造に立ち会い再建されました。毎年除夜の鐘を撞かせて頂き、檀信徒一同の幸せをお祈り致しております。
    また、お参りに来られた方にも自由に撞いて頂いております。

  • 西側入口にある一対の金剛力士石像(阿吽の仁王像)も平成4年(1992) 当時27世の建立です。
    42年間奉職した駒澤大学退職にあたり、大蒼院檀信徒各家の福寿康寧並びに大蒼院及び27世孫達の守護とし建立されました。

    また、仁王像前に建つ延命地蔵は、平成6年、当山檀中若き2人の不慮の事故に伴い、我が子だけではなく、広く人々の延命をも願う心より 豊田時次郎氏、小林勇氏両名により建立寄贈されました。
    脇にある由来の碑は、当時駒澤大学教授であり、27世学友でもあった鈴木格禪先生にお書き頂きました。

  • 境内や参道脇に石造物が多く、五輪塔の完型のものはないのですが、室町時代後期の小型のものが十基ほどあります。仁王像脇に百番供養塔六基が並び、その中の一基に貞享5年 (1688)の紀年銘があります。

    これは現東町では百番供養塔の最古のもので有ると共に、銘に遠国の西国と坂東、秩父の各札所合わせて百番札所の観音に奉納すると書いてあります。

    仁王像の横には、観音石像(百番供養塔)と如意輪観音石像があり、如意輪観音は円光の二重光背をつけています。光背と観音の体の側面には今でも朱が残っていて、すっきりしたお顔の美しい観音様です。また、仁王像の後ろに庚申塔が五基並んでいるなど、参道から境内に青面金剛、庚申塔が多く見られます。また、農耕馬の為に建てられた馬頭観音も墓所の脇に建てられております。

大蒼院の参道は、国道122号線から桜木坂と呼ばれる細い急な坂道を上り、禁薫酒の石碑の脇より石段を登ると本堂の前に出ます。桜木坂の名は境内から石垣の上にのびた大きなしだれ桜に由来したと思われ、今はその老木(樹齢450)ではなく、その子供である2代目が迎えてくれます。
  • 桜の切り株近くに「学童疎開の里の碑」がありますが、第2次世界大戦下の東京都練馬区南大泉より「区立大泉第二小学校」の3年生から6年生までの児童44名、教師2名、寮母1名の計47名が、昭和20年5月1日から10月26日まで、当寺にて宿泊し勉強を続けられました。
    到着当初は4月10日の空襲(校庭への爆弾の投下)により急遽決まった疎開の為、荷物(布団等)が到着しておらず、周辺の大蒼院檀家22軒に協力をお願いし2~3人ずつ分宿、その後も勉強が終わると各家のお手伝い(主に養蚕)また、寺には大きな風呂が無かった為、お風呂を頂いて帰って来たと聞いております。

    その後も交流が続き、学童疎開の会「東泉会」として戦後45年、命の大切さを記念して、平成2年に建てられたものです。

  • 尚、先代27世義峰俊英大和尚葬儀(平成21年12月)の折には、6名の方が参列、他6名の方からも訃報を聞きご連絡を頂きました。
    翌22年には65周年になりましたと言われ、来寺された方がおりました。

    半年のお付き合いが、既に75年の長きにわたり続いている事に、改めて人と人の御縁の尊さに感銘しております。

最後になりますが、境内東側には、樹齢600年ともいわれるキリシマツツジ(東西南北枝張径4m樹高4m)があり、4月末から5月上旬にかけ、燃えるような真っ赤な美しい花を咲かせて楽しませてくれています。
  • 但し、キリシマツツジとは、薩摩藩により1600年代に江戸へ持ち込まれ、江戸の人々により品種開発したものと言う事が定説ですので、樹齢は400年前後が妥当なのかもしれませんね。

    しかし、大蒼院が500年以上前からこの地にある事、キリシマツツジは非常に樹齢が判断しづらい事など含め、もしも定説を覆す事でもあれば!
    と考えるだけで、また違った意味での楽しみ方があるかもしれませんね。

    現在では樹木のDNA鑑定もあると聞いております。現代の最先端の技術に樹齢600年のキリシマツツジはどう答えるのか!
    年間たった1週間、燃え盛る炎のように、人々の心を魅了してきた大蒼院のキリシマツツジ、いずれは解き明かされる真実が楽しみでもあります。

  • 《 みどり市天然記念物 》

    大蒼院のキリシマツツジ (平成12年9月11日指定)

  • 《 みどり市重要文化財 》

    大蒼院欄間彫刻 (平成15年7月18日指定)

《 参考文献 》 
勢多郡東村史 発行 勢多郡東村
ぐんまのお寺(曹洞宗)発行 上毛新聞社